庄内町余目字土堤下
「和心の像」とは
庄内地方の産業・経済・文化の振興に尽くされ、優れた功績をのこされた先駆者達への感謝と尊敬の念を込めて設立したのが「和心の像」である。(場所:庄内町支店の敷地内右側)その先駆者とは、北館利長、河村瑞賢、本間光丘、菅実秀、阿部亀治である。高さは約20m、先人たちの情熱を伝えるこのシンボルモニュメントととして平和と豊かな地域社会の発展を願う熱い思いが込められて制作された。
北 館 利 長 (きただてとしなが)天文17年(1548年)生まれ
利水家。最上義光の将、慶長5年利長は姓を北館と称し、狩川・清川・立谷沢の3,000石を与えられて狩川城主となる。わが所領を検分せしところ水利不良、土地荒廃を憂いて北館大堰の開削による耕地の造成を完成。立谷沢川より取水して、延長17,000余間、最上川南岸4,200余町歩が美田に化した。後に、先明けに召し抱えられて姓を北楯と改め78歳で没した。北館水神として祀られ、のち「北館神社」と改称されている。
河 村 瑞 賢(かわむらずいけん)元和3年(1617年)生まれ
海運業者。伊勢の貧農の家に生まれ、のち江戸に出て車力となる。幼少より才覚ありて、江戸屈指の材木屋となった。後に運輸、航海の幕命をうけて、江戸東回り航路、そして出羽の官米を江戸に送るため、西回航路も開いた。酒田に米置場瑞賢倉を建てて、最上川舟運から下関経由で、江戸に運んだ。以来、酒田の港は西回航路の重要拠点となり大いに繁栄した。後年、酒田市日和山公園に瑞賢の銅像が立つ。
本 間 光 丘(ほんまみつおか)享保17年(1732年)生まれ
大地主。酒田本間家二代庄五郎(光寿)の三男に生まれる。幼少の頃より学問を好み、経史をよくし、勤検力行、経営の刷新をはかり、一代50年間で全国屈指の大地主に成長せしめた。一方、酒田西浜一帯の砂丘地造成、砂防用の松苗を増植し、宝歴8年から東西250間南北1,000間、松苗植林の公益家として後世に名を残し、庄内の美田を守ることに成功した。酒田市の下日枝神社境内に、光丘神社が創建された。
菅 実 秀(すげさねひで)文政13年(1830年)生まれ
庄内藩士、菅実則(九十郎)を父として鶴岡元曲師町で生まれる。明治4年廃藩置県の施行により、酒田県權参事に任ぜられ、はじめて西郷南洲と交わり、明治5年松ヶ岡開墾事業に着手し指導する。同7年、ワッパ騒動の責めで退官し、同8年に松平久厚らとともに鹿児島県に赴いて、南洲に師事する。南洲が没後は、酒井家「御家禄」と称されて、旧潘家主側近頭領との力を発揮し、鶴岡財政の礎を築き上げた。往年、「南洲翁遺訓」を発刊し、その趣旨の普及につとめた。
阿 部 亀 治(あべかめじ)慶応4年(1868年)生まれ
農事功労者。余目旧大和村小出新田の小作農阿部茂七の長男として生まれ、幼少時に家業を継ぐ。温厚で研究心強く、明治20年から乾田馬耕、雁爪除草、水稲品種の改良に没頭した。明治26年(1893年)立谷沢地内クマヤ人者境内隣地より、冷害の冷立稲の中から数本の黄金色に稔った稲穂を発見。5年間をかけて、品種固定に成功した。のちに、「亀の尾」と命名された。「亀の尾」は庄内地方、村山地方、その後全国各地に栽培され、昭和20年宮中での「御田植品種」に選ばれている。大正54年農功労者として皇太子殿下に拝謁し緑白綬褒章、昭和2年には、藍綬褒章を受章している。また、県農会より生地小出新田熊野神社境内に頌徳碑が建立されている。